彼は頭が良いくせに、少々物覚えが悪かった。年のせいもあるのかもしれないが今話していた内容をポカンと忘れたり、物を置いた場所を忘れ、一人で慌てる。酷いときは一緒に買い物に出かけたのに私を忘れて家に帰って来る。それ以来、出かける時は忘れられないように手を繋ぐようになった。 彼は「こんな年寄りが若者のように手を繋ぐなんて恥ずかしいだろう」と怒るが、何だかんだ言って手を離さないでいてくれる。たまに「今日は天気が良いから散歩でもして帰ろうか」と言って遠回りをする時は、いつも同じ家にいるくせに久々に顔を合わせた恋人のように年甲斐もなくドキドキとした気持ちになる。こんな私を彼は気持ちの悪い婆さんだと笑うだろうか。 「あなた、あなた」 「愛しているよ」 泣いてすがる私に彼は静かな声でそう言うと冷たい手で頭を撫でて、静かに目を閉じた。動いていた手が止まり、僅かだった心臓の音が聞こえなくなる。嫌だ、嫌だ。私を置いて逝くなんてあんまりじゃありませんか。ボロボロと涙を溢して彼のことをずっと考えていると、いつの間にか葬式が終わっていて、目の前には仏壇と彼の若い頃の写真があった。そういえば年をとるにつれて一緒に写真を撮ることはなくなっていったなあ。懐かしい写真を手に取ると、また涙が溢れ出た。 「母さん、辛かったね」 ぽん、と優しく肩に手を置いたのは私の息子だった。息子の顔は若い頃の彼によく似ていて、何だか可笑しい気持ちと寂しい気持ちが混ざって余計涙が止まらなくなった。 私はこれから更に老いていくだろう。トイレは一人で行けなくなるかもしれないし、彼よりももっと物忘れが激しい人間になるかもしれない。どんどん年老いて行く母なんて息子は見ていたくないだろうし、下の世話もしたくないだろう。私もさせたくはない。だから、そこまで年老いる前に早く彼の元へ逝きたいと願う。 彼は本当に野球が好きだったから、きっと天国でも何かしらしているのだろう。私は天国へ逝けると決まったわけではないけれど、あっちへ逝ったらきちんと彼を見つけることが出来るだろうか。物忘れの激しい彼だったから私のことを忘れていないといいんだけど。そう思いながら彼がいなくなって数週間振りに気持ち良く寝た今日、目を覚ましたら足元に目を閉じて寝ている私がいた。私は起きているのにもう一人私がいて、寝ているなんて可笑しなことが起きているものだと思った。 寝ている私の周りには息子がいて、親戚がいて、しくしく泣いている。 「一体どうしたっていうの?」 息子に触れようと伸ばした手は肩をすり抜けた。話しかけた声も聞こえないらしく、息子は顔をあげることもなく、また、顔を覗き込んでも気づいてはくれない。 もしかしたら私は死んでしまったのではないだろうか。ふと、そんな考えが浮かんだのと同時に頭の上から「次の人どうぞ」という声が聞こえた。 その声に吸い込まれるように引っ張り上げられ、思わず目を閉じて次に開いた時には見知らぬ部屋にいた。目の前には寝ている私や泣いている息子、親戚ではなく、頭に大王と書かれた帽子を被った人がいる。 「いらっしゃい。今君は何が起きたかわからないだろう」 「は、はい…」 「簡単に説明すると君は死んだんだ。死因は書いていないから分からないけど、そう気にすることではないだろう。で、此処は俗に言うあの世というところだ。俺は人が言う閻魔大王というやつ。今から君を天国か地獄へ行くべきか裁く者だ」 一度に言われたので頭に入れるのが一生懸命だった。ええと、ええと、と必死についていこうとするが、そう簡単に頭に入るわけもなく。 しかし、分かっていないんだと思われるのが嫌で意味もなく指を折って何かを数えるふりをした。その時にふと見た私の指や腕にはあったはずの皺が消えていた。細く、弱々しい腕ではなく恥ずかしながら、若者のように見えた。 「ああ、あのね言い忘れたけど今の君の姿は…そうだね。十七、八というところかな。此処ではね、君が一番素敵だったと思っている頃の自分の姿に戻れる。だからその頃の君は何か素敵だったことがあったんだろうね」 何か素敵なことと言えば、何があっただろうと考える。そうすると、頭の奥からふわふわと浮かんでくるのは彼の顔だった。そういえば、彼と初めて出会ったのは高校の時だった。あの頃、何となく行くのが面倒くさくて嫌だった高校が楽しく感じられたのは、彼が野球部のマネジに誘ってくれたからだったように思う。思い返せば、全ては彼のお陰だったのかもしれない。 思い出して自然と緩む口元に気づいた閻魔大王が「幸せそうだね」と目を細めて言った。 「それじゃあ、後がつまるからそろそろ言うよ」 「はい」 ゆっくりと階段を上る。なんだか心なしか身体が軽くなった気がするのは錯覚だろうか。彼もこんな風にこの長く続く階段を上ったのだ。そうに違いない。 私は天国へと続く階段を上り、大きな門…、いや、扉の前に立った。すると天使のような、羽の生えた人が2人だけでその扉を開ける。私は戸惑いながらもそれを潜った。 その先はまるで楽園。天国ってこんなのだったのか。私は感慨で震えた。なんだか和なところ。少し微笑みながら歩くと、何やら楽しそうな声が聞こえた。 ああ、そうだ。彼が生きていたころは。私達がもっと若かった頃は。ああやって子供たちと一緒に草野球をしたんだった。記憶に焼きついた彼の笑顔が、懐かしくって切なくって、私は少し泣いてしまった。これだから年をとると。ああ、今は十七、八だっただろうか。 私がしんみりしながらそこに立ち止まっていると、さっきの大王さんが私の元へとやってきた。 「いや、少し休憩に、と」 「ああ、それはそれは…」 特に何を話すわけではなく、私はそのお方と並んで座った。心地よい風が流れて、このまま彼を忘れてしまうんじゃないかと恐ろしくなった。 するとそんな私の足元に、野球ボールが転がった。どうやら外野守備だったらしい男の子がエラーをしたらしく、私にすみませんと困った顔で笑った。懐かしいものね。私は一度微笑んでから、若くなったこの体で勢いよくボールを投げた。この感覚。まるであの頃のようだ。嬉しくなって、すごいとはしゃぐ少年に笑顔で手を振った。 「お姉さん、ありがとう!」 「どういたしまして」 「コラァ!クソガキ!!さっさと守備につけ!」 「分かってるよぅ!あ、お兄ちゃん聞いて!このお姉ちゃん、すごいボール投げるんだよ!」 「はあ?どのお姉ちゃん?」 そう聞こえて間もなく、遠くから天使のような羽を生やしたグローブとキャッチャー防具を着けた男が現れた。タレ目なのに鋭い目で、そこに居るだけで威圧感がある。まさに鬼、という感じの人だった。 初めて見る姿の者にひっ、と腰を抜かしてしまいそうだったけれど、そうならなかったのはその人の顔に見覚えがあったからだろう。 「あ、あなた?」 「は?」 鬼のような天使が私の顔を見る。横から見ても真正面から見ても、天使は先に逝ってしまった彼の顔によく似ていた。似ているなんてものではない。妙な羽が生えているだけで顔は若い頃の彼そのものだった。 「あ、あの」 何て言えばいいのか分からないが、閻魔大王とやらなら私の言いたいことを分かってくれるのではないかとチラリと視線を送ると、やはり閻魔大王はコクリと頷いて口を開いた。 「隆也くんは数週間前に僕の元に来た子なんだ。一般人ではあるけど仕事が出来るから、僕の仕事を少し手伝ってもらってる。それが天使。君が隆也くんに反応したということは、きっと知り合いなんだろうね。関係については聞かないけども、一つ言わなければいけないことがある。この子は、と言うよりも皆なんだけど此処に住んでいるうちにこの世界の人は生きていた頃の記憶を忘れていく。そうすることで生まれ変わる時に昔の記憶を引きずっていかないようにするんだ」 「………」 「ちょっと難しいね。だけど何となく分かってくれたらいい。隆也くんはきっと君を覚えていない。君も此処へ住むようになったらそうなる。今から作る新しい記憶だって生まれ変わる時は忘れてしまうんだけど」 私に説明をする閻魔大王の隣で天使が困ったような複雑な顔をしている。この人が彼だと分かったわけではないけれど、自分の前で自分に関係していたような話をされているのだから当然と言えば当然だろう。 「私は」 「…あ、はい」 天使が不安そうに私の言葉を待つ。閻魔大王も黙って見ている。声をかけた所で言う言葉なんて何一つ考えてやしなかったんだけれど、声をかけれずにはいられなかった。 「貴方にとっては初めてなんですが、と言っても人違いでしたら私も初めてとなるんですが、ええと言いたいことはそれではなくて、そのつまり、私は貴方が私の知っている貴方だと思って言うのですけど私は貴方が好きです」 「え、ええっ!」 「貴方に会いたくて会いたくて毎日泣きました。今だって本当は泣きたいくらいです。私、貴方が好きなんです。何かしてくれというわけではないけれど、ただそれだけ知っていてくれたら今は満足です」 言ってから顔がカアッと熱くなるのがわかった。若者に戻るとこうも素直にペラペラと言葉が出るものかと、今の気持ちを姿のせいにした。けれど、言わなければよかったとは思わなかった。 「…あの…、」 「は、はい」 「俺は貴女を覚えていないけど、もしかしたら貴女の知り合いだったのかもしれない。根拠はないですけど。いや、ええと、まあ、それで俺にとっては初めて、になるんだけど、その、何て言っていいか分からないけど少なくとも俺はあんたが嫌いじゃなくて、寧ろ好意を持って、います。もしも俺があんたと出会っていた人なら、きっとあんたは俺に優しくしてくれてたと思う。と、今思ったりなんかしたんだけど…すんません、纏まらず滅茶苦茶で」 ペコリと頭を下げた天使の肌は日陰の所為でよく分からないのだけど、チラリと見えた耳が肌の色よりも赤い気がして、何だか可笑しくなり思わず吹き出した。慌てて顔を上げる天使がええと、とモゴモゴ何か言う。例え、天使が彼ではなくても私はこの人に会えて良かったと思う。 閻魔大王がどこから出したのかペラペラと書類を捲って、あるところで手を止めた。そこに何が書いてあるか私からは見えないが「また恋から始めようか」と言って一人頷くと、閻魔大王は優しい笑みを浮かべて私達を見た。 あとがき 名前変換が一切ないんですがどういうことかな。 ちなみに余談ですが、作中に出てくる閻魔大王は日和の閻魔大王をイメージしてました。 20100508 麦銀 |